blue of blue

映画と好きな本の感想など

三次元の存在を推すことで得たもの

私には推しがいる。推しは三次元の存在なので、二次元のキャラクターたちやストーリーを愛好してきた今までと比べると、圧倒的に実在している感じがする(当たり前)。

 

現実に存在する推しのおかげで得たのは、推し1からは執着する苦しさと明るい励ましで、推し2からは穏やかな気持ちとあたたかい人間関係の良さだと思う。

 

推し2は、まあまだ確実に「推し!!!!!」という感じではないが、とりあえず軽率に推しという言葉を使いたくなるくらいには好き。

推し1に比べて、今まで好きだった二次元のキャラクターたちを好きになるような気持ちに近い気持ちで推せているのが本当に落ち着く。推し2が仲のいい人と楽しく話しているのを見るのが、かけがえのないものを見ている気がして最高。

きっと自分の実生活では得られずに、これからも得ることを諦めているものがそこに広がっていて、自分もその輪の中に入っているような錯覚を得られて慰められるのだろう。さびしい(自分が、という意味であって誰かを批判しているわけではない)。

 

問題は推し1。推し1は推し2と違って第三者同士のやりとりを見て楽しむというより、「私と推し1」という気持ちになってしまって本当に苦しい。ファンとの双方向コミュニケーションの活発な活動者を応援するオタクの一部はこんな気持ちを抱えているのだろうか。

現実の恋愛を演繹するわけではないし、推し1にガチ恋しているわけではない(と信じたい)が、人に執着する気持ちはこんな感じなのか……と恐れおののいている。

しかし、今までフィクション、特に一部の百合を扱う同人誌(限定的すぎる)でなんとなく遠くに感じてきた「執着」という感情が最近わかるような気がしてきている。

他者に執着する自分をもっと客観視できれば、より執着がわかって、今のこの執着に苦しむ現状から抜け出せる気がする。そうなるのはきっと他界(担降り/上がる)したあとだろうから意味がないのかもしれないが。

執着がどういった形で自分の中で渦巻いているかは、まあありがちな渦巻き方ではあるがまだ書けないのがまた苦しい。

 

Twitterにはあまりにも書きづらい内容で、執着しているせいで執着がわかりかけてきたことはどうしても書きたかったのでブログにしたためた。

ただ肝心なことは、執着のわかりみが深くなるのは私にとっては良いのかもしれないが、推し1はそんなことを伝えるために活動しているわけではない。厄介ポエミーファン辞めたい。